七洋貿易株式会社 社長 渡辺 征人紹介 台湾茶 東方美人

七洋貿易株式会社 社長 渡辺 征人 ご紹介

社長である渡辺征人の生誕から現在に至るまでを、エッセイ風に紹介しています。
業務上は関係ないと思われる方もいらっしゃると思いますが、より良く、末長いお取り引きをさせていただくうえで、弊社の商品のすばらしさとともに、渡辺征人についても知っていただければと思います。長い文章ですので、お時間のあるときに、美味しい台湾茶を片手にゆっくりと眺めていただければと思います。

お茶と私

茶坊主

 私は、幼い時から「茶坊主」といわれるほどの日本茶好きな少年でした。当時はお茶の価値は分かりませんが、お茶の美味しさ、茶葉がもつ味を上手に引き出して淹れられたお茶か、といったことは感覚的に理解していたように思います。祖母は「味の分からない子供だから」と思ってか、何度も出したような“出がらし”のお茶を入れてくれることが多かったのですが、私は、すぐに「一番茶にしてほしい」とねだっていました。そのうち、お気に入りのお茶を指定するようになっていました。

実家にいるときはもちろん、一人暮らしをするようになった大学生も、ポットと急須は必需品。祖母から送ってもらったお気に入りのお茶を毎日飲んでいた奇妙な大学生でした。

台湾茶との出会い

会社に勤めていた頃、台湾・中国人の方とお付き合いする機会が多かったのですが、そうした中で台湾文化に興味を持つようになったのは、自然の流れだったように思います。人々とのふれあいや旅行などを通じてさまざまな台湾文化を経験しましたが、中でも衝撃的だったのは本場台湾で口にした台湾茶との出会いでした。

台湾茶の持つコクのある味わい、心安らぐ香り、お茶好きの私でも、それまでには経験したことのないようなものでした。「こんなに美味しいお茶は初めてだ」というのが率直な感想でした。

帰国後、台湾茶についてもっと知りたいと思い、早速本屋さんに行って5冊もの本を買い、一晩で読んでしまったことからも、私が感じた衝撃を察していただけるのではないでしょうか。その後も、中華街にも足を運び、いろいろなお茶を飲んでみました。

そうした中で、素朴な疑問が浮かぶようになりました。「これだけ美味しいのに日本では、あまり普及していないのはなぜなのだろう」と。普及しない原因はいくつかあるように感じました。

まずは価格の問題です。台湾では物価は日本よりも安いのですが、お茶の値段だけは日本と同じ、あるいはそれ以上です。そのため、日本で販売するためには、輸送コストを含めると、どうしても割高になってしまいます。

また、お茶に対する文化・習慣の違いも、台湾茶の普及を妨げる要因になっているように感じました。台湾の夏はとにかく暑いのですが、そんな暑い最中でも熱いお茶が出てきます。日本であれば、冷たいお茶が出されるところです。確かに暑いときには冷たいものがほしくなりますが、冷やすということは、あまり体によくないということもあり、台湾では熱いお茶が出てくるのです。そして、ご存じの方も多いと思いますが、台湾では人の集まるところには、必ずといっていいほどお茶のセットがあります。大きな卓の真ん中にお茶を淹れる道具があり、もてなす側の人が、おしゃべりしながら、お茶を振舞います。そして、お猪口のような小さい器で何度も何度もお茶を飲みます。それは台湾では日常的な光景です。個人的には、こうした台湾の習慣が大好きです。七洋貿易の仕事を通じて、日本でもこんな素敵な憩いの場を提供するお手伝いをしたい。それが今の私の夢の一つです。

小学~高校時代

Episode1-1:勉強嫌いの小学生

小学生のころは全くと言っていいほど勉強をしない子供でした。私の出身地である新潟市は、現在でこそ政令指定都市になり、かなり都市化が進んでいますが、当時は自宅から数百メートルいくと田んぼが一面に広がるようなところでしたので、虫・魚・ザリガニを捕まえるなど自然の中で遊んでばかりいました。
今、振り返ると良かったのか悪かったのかは分からないですが、そんな私を見ても母親は「勉強しなさい」と口にすることはありませんでした。もしかすると、勉強に関しては、すでにあきらめていたのかもしれません。
私:中学卒業したら、高校行かなくていいの?
母親:勉強したくなかったらそれでもいい。働くこともできるよ。
私:そうなんだ!(喜び)
こんな会話が交わされることが珍しくはありませんでした。そうしたこともあって、当時の私は、真剣に中学を卒業したら、新聞配達をして働こうと思っていました。

Episode1-2:転機~小学校の先生との出会い~

小学6年生も終わりに近づいたある日、年配の女性の担任の先生が、かつての教え子の卒業後の話をしたことがありました。先生の話は、あまり聞かない生徒だったのですが、なぜかそのときばかりは聞き入っていました。小学生のころは勉強がほとんどできなかったというその教え子は、中学校に入ってから努力するようになり、みるみる成績を伸ばし、とうとう大学まで行き、現在は立派な社会人として活躍しているという話でした。
この話を聞いて、私は「今の自分でもがんばれば勉強ができるようになるんだ」と感動しました。早速、クラスの成績優秀な子に、どのようにして勉強しているのかを聞きました。塾に行くといいと教えられ、早速、母親に「お母さん、中学になったら塾に行く!!」といいました。当時はさぞかし、母親は驚いたことでしょう。
もし、先生からのこの話を聞いていなければ、今とは全く違った人生を歩んでいたのではないか思います。

Episode 1-3:中学時代

中学校生活で印象に残っているのは部活動です。とはいっても「スポーツが大好きで、楽しく、・熱心に活動していた」といった前向きな思い出ではありません。通っていた中学校では、何らかの部に強制的に入部しなくてはならないという決まりがありました。そこで仕方なく、“一番楽なスポーツ”という勝手な思い込みでバドミントン部に入部したのですが、そこはスポーツを楽しむ以前のとんでもない部活でした。絶対服従の超縦社会。おそらく軍隊の主従関係もこれくらいなのではないかと思うほどでした。少しでも気に入らないことがあると、往復ビンタなどの暴力は当たり前でした。とにかく威張り散らす先輩が本当に嫌でたまりませんでした。
ただ、今になって思い返せば、上下関係の大切な部分と嫌な部分というのを自分なりに学ぶことのできた時期だったと思っています。

Episode1-4:高校生時代

中学校時代の猛烈な部活から、一転、高校では念願の“帰宅部”になりました。
帰宅して、甘い和菓子に日本茶を飲みながら、水戸黄門を見て気分を落ち着けてから勉強するというのが当時の習慣でした。両親は、あまりお茶を飲まなかったので、自分でお湯を沸かし、お茶を淹れて飲んでいました。
高校生時代の出来事で、不思議と印象深く残っているのは日経平均が最高値を付けたということです。日経平均が3万8000円という最高値を付けたのは1989年12月29日の大納会の日でした。当時、私は高校一年生だったので、株には全く興味はなかったのですが、夢中になって景気のいい話をしていた母親の姿が鮮明に焼きついています。母親曰く「年が明けたら、一気に4万円超えるから!!」とすごく勢いのある話。しかし、年が明けてみると、一転、株価は急降下。いわゆるバブルの崩壊の始まりでした。とはいっても、なにしろ高校生でしたから、世間の喧騒とは全く無関係な中で学生生活を過ごしていました。

大学時代

Episode 2-1:目指せ!公務員

 新潟の片田舎からとにかく脱出したかったので、大学は東京にある学校を希望し、念願の上京を果たしました。「おら東京さいくだ」といったか言わなかったか…。
大学生時代にもいろいろな出来事がありましたが、悩み・苦労したのは就職活動でした。今思えば、そのころの自分は親に守られて、ぬくぬくと育っていたにもかかわらず、そんなことにも気付かずに「自分の力で生きている」と思い込んでいるような甘えがありました。ちょうどお釈迦様の手のひらの上にいるにもかかわらず、世界の果てまで行ったと信じた孫悟空のように。
そうした自分の甘さに気づかされたのが就職活動だったような気がします。
最初は、父親が公務員ということもあり、深く考えもせずに公務員を志望していました。しかし、秋も深まるころには公務員試験が全滅に終わり万事休すとなってしまいました。
 周囲がみんな就職を決めている中で、私一人、行き先が決まらないという状態でした。民間企業への就職活動は全く行っていなかったので、東京で就職浪人とも考えたのですが、両親からは不可との回答。どこでもいいので就職するか、実家の新潟市へ帰るようにとのことでした。このまま、故郷に帰るのだけは避けたかったので、大学4年生の10月ごろから就職活動を開始しました。

Episode 2-2:民間企業への就職活動

 いざ、「就職活動を始めよう」と思ってみたものの、それまで民間企業への就職活動なんて考えてもいなかったので、何をどのようにすればいいのか全く分からなかったので、とにかく企業セミナーへ参加することから始めました。ただ、それまでは公務員一本で考えていたわけですから、志望する企業や業界などがあるわけでもなく、とりあえず就職活動をしているというような状態でした。一方、面接する方は採用のプロ。そんな人間が表面上だけ取り繕っても、すぐに見破られます。ある会社では、面接時に「いい加減な気持ちでこられても困る」といわれました。また、「履歴書の字、全く気持ちが入っていない」と怒られたこともありました。そのような経験をしていく中で、次第に気持ちに整理をつけて、前向きにがんばり始めたのですが、時すでに遅し。ほとんどの企業が採用を終わっている状況で、なかなか就職は決まりません。
これではいけないと焦りがつのる11月の下旬頃、お酒を飲みながら、友人に相談にのってもらいました。そのときは、内定取れないという焦り・不安・悔しさ・自分への怒りと、酔いからくる気持ちが高まりもあり、思わず涙が止まらずに泣いてしまいました。そんな私をみた友人は「泣いたからといって解決するわけではない」と励ましを込めた激をとばしてくれました。そのおかげで気持ちが吹っ切れ、「なるようになるさ」という気持ちで、再度就職活動に挑みました。すると不思議なもので、それから数日で採用を前向きに検討してくれる企業に出会い、結果的にその会社、精密機械部品などの素材となる精鋼メーカーに就職することになりました。
 正直なところ、「希望に胸を膨らませて」というよりは「受験で滑り止めに合格した」という気持ちでしたが、何はともあれ就職決まってよかったというのが本音でした。
困ったときに、表面上の慰めではなく、激をとばしてくれた友人には、本当に感謝しています。ちなみに、現在、彼は故郷に帰り、実家で家業を継いでいます。学生時代は、とにかく、よく飲んで語り合いました。良き友に恵まれ、貴重な時期を過ごすことができたと思っています。

社会人時代

Episode3-1:入社式前祝 

 入社日前夜、引っ越しを終えたばかりの会社の寮で荷物の整理をしているときに、歓迎会をするとのことで先輩に声をかけられました。すごすごと、その先輩の後を付いていくと、既にそこには入寮したばかりの同期がおり、かなり飲んでいる様子でした。挨拶もそこそこに、私もお酒をシコタマ飲まされました。まるで、学生の飲み会のようにイッキのみを強要され、社会人(?)としての洗礼を受けました。

 当然、翌日は、重度の二日酔いで、お酒のにおいをぷんぷんさせて入社式に臨みました。とんだ社会人としてのスタート第一日目だったことを覚えています。

Episode3-2:初任給の使い道

会社の寮は、四畳半一間でトイレ・風呂・台所は共有でしたが、あまり不自由は感じませんでした。ただ、台所が共有という点だけは少しだけ不便を感じていました。食事付の寮だったので、普通の人であればそれほど不便を感じないのかもしれませんが、私の場合はお茶を飲む週間ガあったので、お湯を調達する必要がありました。そのうえ、当時は保温機能のみの小さなポットしか持っていなかったので、台所まで行って、お湯を沸かしポットに入れるという作業を頻繁に行わなければなりませんでした。

そこで、初任給を貰って、まず購入したのが大きな電気ポット。「初任給で何を買いましたか?」と聞かれる、多くの人は「両親へのプレゼント」などと答えるところでしょう。しかし、私の場合は電気ポットだったのです。ただ、当時は、若い男性が一人でお茶をいれて飲むということに、なんとなく気恥ずかしさがあったので、そんな質問をされると「両親へのプレゼント」などと、適当に“お茶を濁して”いました。

Episode3-3:独身貴族

学生時代から一転、社会人になってからは毎日決まった時間に起床して会社に行くという規則正しい生活を送っていたのですが、その一方で、一日が終わると、その開放感から深酒をするような生活が続きました。また、自由になるお金も増えたので、大学生時代から興味があった車へのめりこみ、サーキットにも頻繁に通うようになっていました。会社には休まずに行っていたので、特に問題があるということはありませんでしたが、時間とお金のほとんどを、お酒と車へつぎ込むという“独身貴族”的な生活を謳歌していました。

Episode3-4:自己主張の強い新人

入社した当時は、とにかく自分の考えを主張することが正しいと思い込んでいました。今でこそ、相手の立場や考え・周囲の状況などを考慮しながら責任ある発言・行動していくことが大切であると思っていますが、当時の私は相手や状況のことなどは十分に考えることなく、どんな場面でも自分の考えを主張することが一番正しいと信じていました。

 入社して、会社という組織の一員になってみると、非効率に思える業務の進め方など、疑問を

感じることが多くありました。そうした点に関しては、自分の考えをいろいろ提案したのですが、「その考えはいいのだけどね~。前例がないから…」という回答。会社ってなぜ保守的な考え方しかしないのだろうと疑問を持ったものでした。

そんな自己主張の強い新入社員だったので、上司とも意見衝突することも多く、険悪な雰囲気になってしまうことも珍しくありませんでした。

Episode3-5:居酒屋で大乱闘

 暑気払いということで、あるとき職場で飲み会がありました。当然、上司とも同席でしたが、最初はお互いに、笑顔で当たり障りのない話をしていました。しかし、お酒が進むにつれ、徐々にお互いの本音が、ちらほらと見え隠れするようになり、ついには私が発した一言が上司の逆鱗に触れてしまい、突然、顔面にパンチが飛んできました。当たりどころが悪かったのか、ボクシングの試合のように、眉の辺りから流血してしまいました。一瞬のことだったので、何事が起こったのかと驚きましたが、次第に怒りがこみ上げ、言葉で“応戦”しました。もうこうなると喧嘩です。飲み会は即座に強制的お開きになりました。その後、私の顔に絆創膏が貼ってある間は、上司との間には気まずい雰囲気となってしまいました。

ただ、この一件を通じて、まるで敵・味方が対峙するように、ただ自分の考えのみを一方的に主張するのではなく、相手の意見を聞きながらコミュニケーションを深めることの大切さを痛感しました。これを契機に私は反省すべき点は改め、上司に対し敬意をもって対応するよう心掛けるようになりました。すると、上司との関係も次第に良好なものへと変わっていきました。その上司とは親子ほどの年齢差でしたが、きっとできの悪い息子のように思ってくれていたのかもしれません。今は、本当に申し訳ないことをしてしまったと思うと同時に、とても感謝しています。

Episode3-6:会社での経験

 入社して担当した仕事は法人営業でしたが、当時は景気の厳しさを肌で実感する日々でした。ちょうど、大手メーカーが積極的に製造拠点を海外へ移転させていた時期でした。多くの取引先では、それまでは黙っていても大手メーカーからある程度、安定した量の発注が舞い込むという状況でしたので、増産を見込んで借入をして高価な機械を購入したばかりという企業もありました。そうした取引先の中には、受注量の減少によって、仕事はなく負債だけが重くのしかかり、倒産してしまったところもありました。さらに、2001年9月にアメリカで起こった同時多発テロが、景気低迷に追い打ちをかけた時期でした。こうしたことが、つい昨日のことのように思い出されます。

私生活では、見識を増やすために、さまざまなものを食べ歩き、見聞きするように、海外旅行に行く機会を増やすようにしました。その際、日本は不況なのに、海外は元気であるということを肌で実感すると同時に、これからは日本だけではなく、外国の国々と付合うことは避けられないのだなと強く感じました。

Episode 3-7:国際交流

 私生活では、日本企業で働いていた台湾人男性と知り合ったことで、自分の考え方が大きく広がりました。文化習慣考え方など、旅行だけでは知りえない深い交流ができたことは今の自分でも大きな財産のひとつとなっています。それまでは外国というと、遠い世界のように感じていましたが、インターネットの普及などもあり、とても身近な存在であると思えるようになってきました。

もう、“時効”ですので、話していいと思いますが、実は副業禁止の会社員時代に中国人スナックの経営の手伝いをしていたことがありました。資本金を出資して、会社の設立や登記などを行い、一年ほどは取締役にも就任していました。そこで出会った中国人の友人たちは、みな日本語がうまくて、コミュニケーションに困ることは全くありませんでした。ただ、中国人固有の考え方との違い、文化の違いを強く実感じることも少なくありませんでした。例えば、相手が怒っているときに、気持ちをなだめようと、少し笑みを出しながら、「まあまあ落ち着いて」といったように話しかけたら、中国人の友人は「なぜ、そこで笑うのか?何がおかしいのか?」と恕怒りしてしまったことがありました。

そんなときに、あるコラムを思い出しました。確か「言語はカタコトがいい」といった内容だったと思います。あるオーストラリア女性の話でしたが、彼女は日本語場抜群に上手く、流暢な日本語を話したそうです。しかし、周囲の日本人とは折り合いが悪かったという内容でした。日本語があまりにも流暢なので、周囲の人は彼女に日本人と同じ感覚で接します。しかし、彼女は、「自分の意見は当然主張する」という文化の中で育った人ですから、自分の意見を主張するのですが、そうした言動から周囲と衝突が起きてしまうといった内容だったと思います。

育った環境や文化などが違うと、違った考え方をする。中国人スナックでは経営の難しさとともに、そんな当たり前のことを身を持って実感することができた貴重な経験をすることができました。

「七洋貿易」起業前夜

Episode4-1:これでいいのか

入社して数年が経過し、社会人生活にもすっかり慣れた頃、ふと、このままの生活でいいのだろうかという考えがよぎりました。「このまま、一生会社で働き、気晴らしのようにお酒を飲み、終わるのか?」「渡辺征人よ、これでいいのか?」「本当にやりたいことはこれなのか?」と真剣に考えるようになりました。
そんな折、社長が年に一度行う従業員向けの経営報告が開催されました。その時の、社長の自信に満ちた堂々とした姿勢に、深く感動を覚えました。「そうだ、社長になろう。このままでは、だめだ」と思いました。これをきっかけに、自分でも何かできないだろうかと漠然とですが考え始めるようになりました。

Episode4-2:目覚め

起業して社長になりたいと思い始めたものの、企業経営に対する知識があるわけではなく、何からはじめたらよいのかも分からない状態でした。そんなとき、当時、話題になっていた「キャッシュフロー経営」という言葉が目にとまりました。そこで、まずは会計について、学んでみようと思い、早速、本屋さんへ行き、簿記4級の初心者向けの本を購入して読み始めました。今までの反動か、何か目指すことを求めていたのか、毎朝4時に起床して勉強するようになりました。一年間、独学で何とか簿記2級まで取得することができました。

Episode4-3:七洋貿易、設立へ

しばらくして景気も回復し、会社での仕事にも慣れてきたこともあり、平穏な生活を過ごしていました。しかし、その一方で既に台湾茶の魅力に出会っていた私の中では「起業したい」という思いは、さらに大きく膨らむようになっていました。
この頃は、商工会議所などの起業セミナーに参加したり、起業した人から直接話を聞くなどしていました。また、起業した方のところへ、週末だけの手伝いということで通うようになりました。そこは千葉県市原市にある乗馬クラブで、オーナーは趣味の乗馬が高じて、早期退職制度を利用して、乗馬クラブを始めたという方でした。実際に自分の城を持つということのすばらしさと大変さ、ご家族の協力というものが必要不可欠であると思いました。
こうして起業という夢を実現したいという思いが高なる一方で、安定した生活を捨てることへの周囲からの猛反対もあり、夢と現実の間で葛藤する状態が数年続きました。そんな2005年の年末、当初から予定していたニューヨークへ旅行に行きました。ニューヨークは日本より歴史が浅い国なのに、どことなく洗練された重層感が漂っている雰囲気を感じました。言葉で表現するのは難しいですが、一言でいうと「大人の街」といったイメージでしょうか。新しい街の中にも古い建造物が残っており、双方の調和がとてもすばらしい街。そんな雰囲気が「大人の街」という印象を強くしたのかもしれません。
タイムズスクエアでのカウントダウンに参加すると、数十万人がアベニューやストリートに繰り出しカウントダウンをするということで、すごい熱気に満ち溢れていました。氷点下2度でみぞれが降りしきる中、カウントダウンが始まり、新たな年を迎えると同時に、今までの迷いがうそのように、自然と決意していました。「よし、会社を辞めよう!」と。お正月休みをニューヨークで過ごした後、出社した際に退社したい旨を上司に報告しました。うれしいことに引きとめはありましたが、私の話を聞き、最後には納得し、こころよく送り出してくれました。
そして、2006年、大きな夢と共に七洋貿易は大海原に出港したのでした。







七洋貿易株式会社 MENU

七洋貿易株式会社 HOME 台湾茶 東方美人

七洋貿易株式会社 企業案内

七洋貿易株式会社 社長紹介 渡辺 征人

七洋貿易株式会社 サイトMAP

こだわりの台湾茶葉 東方美人
旅行記  食材 七洋通信
100520_HP_shoplogo1.jpg

七洋貿易株式会社 台湾茶 東方美人 職人動画

82s82d82k.jpg

Mail.png
メールでのお問い合わせ